ジャズ喫茶マサコ

2020年春 再オープンしました!

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ジャズ喫茶マサコ 

1953~2009

東京の下北沢にあったジャズ喫茶。

 

1953年6月9日、29歳の奥田政子さんが「ジャズ喫茶マサコ」をオープンしました。

陽気で華やかな政子さん。お店はジャズとコーヒーとマサコさん目当てのお客さんで賑わっていました。

60歳で亡くなられてからは、パートナーの福島信吉さんが二代目オーナーに。

2009年9月24日、下北沢再開発の為、店を閉めることになりました。

 

56年間にわたって下北沢の街に愛され続けた「ジャズ喫茶マサコ」。

福島さんからお借りした貴重な資料を、皆様と共有できたらと思います。

少しずつですがマサコメンバーで更新していき、ニューマサコのオープンに繋げられたらと思います。


東京タイムズ 1971年 9月18日

ジャワ産のカニクイザル「Q(キュウ)ちゃん」。ワイアテリヤ犬の「マジー」、親なし猫の「ニワ」。この三匹、いま、一つ屋根の下で、人間サマもうらやむ共同生活ををつづけている。部屋中に広がるジャズの響きにひたり、コーヒーを味わいながら…。

 ところは、小田急線下北沢駅南口近く。モダンジャズ喫茶のしにせ「マサコ」。雑然としたおよそ六〇平方㍍の店内と、二階の三部屋が彼らの”ナワ張り”だ。昼間のうちは、ほとんど二階で”うたた寝”をきめこんでいる。しかし気分がのれば店内にでて、ソファやいすにちょこんとすわってじょうずにコーヒーを飲んでみせたり、じゃれ回ってお客さんを喜ばせる。だから、「Qちゃん、まだ出てこないかな」と、コーヒーを二杯も飲みながら待っている常連さんもいる。秘蔵の貴重な古いレコード盤と合わせて、同店の”看板”にさえなっている。

最古参の「マジー」がもらわれてきたのは十一年前。ママの奥田政子さん(四七)が、ひとり暮らしのさびしさをまぎらわすために飼い始めたのが、いつの間にか男手のない奥田家の主人的存在になった。「ニワ」は一年前、「Qちゃん」は五か月ほど前から住みついた。

三匹は年の差こそあるが、そこは”同居ペット(人)”同士。仁義をわきまえているのか、驚くほど仲がいい。

一身にあつめていたママのちょう(寵)愛を、幼い新参者「Qちゃん」に奪われた「マジー」も、そんなことは全然気にしない様子。

いたずら坊主・Qちゃんが顔にむしゃぶりつくとうれしそうな顔をする。相手がぐったりと寝込んでいると、心配そうにのぞき込む。とにかくあらゆる点でめんどう見がよく、世間でいわれている”犬猿の仲”はここにはない。「Qちゃん」は「ニワ」ともうまくいっている。ただ、「マジー」と「ニワ」の間には”断絶”状態がつづいているのだが…。

ところで、この三匹の面白い点はそろってコーヒーが大好物なこと。ママのコーヒー&パン生活の影響らしいが、一日でカップ五分の一から八分の一くらいのコーヒーをあける。最近はコーラの”味”もおぼえ始めた。

「Qちゃんはよくぐずったり、眠るとき指をかみます。まるで人間の赤ちゃんのよう。かわいくてマキシやパンタロンなどの沢山のニューモードを作ってあげました。三匹のむすこたちのためにガンバラナクッチャという気持ちになって仕事にも張りがでます」と奥田政子さんも満足そう。

この店には「ダメダヨ」と話すセキセイインコとジュウシマツのツガイもいる。まさに「一人・三匹・三羽」の共同生活ということになる。店に訪れるお客さんたちの心をいつまでもなぐさめてくれることだろう。

ママの政子さんにスプーンでコーヒーを飲ませてもらう「Qチャン」と、うらやましそうに見つめる「マジー」。長い舌先で懸命にすすっております。

=「マサコ」で=

報知新聞 1974年 8月24日

下北沢といえば、吉祥寺と並んで、最近とみに進出中のヤングの街。その一角に、その街が脚光を浴びるずっと以前から、若い人地に愛されてきたジャズ喫茶「マサコ」がある。ここのママさんが、ジャズキチ仲間には、その人ありと知られる奥田政子さん(五〇)。若者に混じって、ジャズと共に半生を生きてきた人である。

「ジャズとの付き合い?そうね。十三歳ごろからだから、三十七年になるかしら。当時はベニー・グッドマンやサッチモの出立てのころですよ。以来、好きなジャズが聴けるならということで、この店も半分趣味でやってきましたよ。今じゃ、ごらんの通りのおばあちゃんに近い年になりましたよ」と朗らかに語る奥田さん。

 

大正十三年芝神明町の待合に生まれ、花柳界の中で小さい時から三味線と小唄に囲まれて育った。

「まあ、そのころから何となく音楽に興味があったんでしょうね」

十二の時、母を亡くし全くの一人となり、当時銀座にあったジャズカフェー「ココナッツグローブ」で働くようになったのが、そもそもの出会い。

その後、女で一つで戦時中、終戦のドサクサを生き抜き、二十八年、子の下北沢に土地を求め「マサコ」を開いた。

「当時は、一軒だけポツンと、山の中の喫茶店というカンジだったんですよ。でも、慶応や成城、東大なんかんの学生さんが、よく通ってきましたよ。今じゃみんな立派になって、親子二代にわたるおなじみさんもいます。今昔を問わず、この少々太めのママさんは、店に集まる若者たちの母親であり、友人だったようだ。

だれとでも気軽にダべり、時には恋の相談に乗ったり、ジャズ談義をかわしたこともしばしばとか。この店から恋が芽生えたカップルも多いとか。わざわざ訪ねてくるミュージシャンや音楽評論家もいる。

月賦で買った土地に建てたバラック風の喫茶店、その雰囲気は昔のまま。気さくなムードとジャズへの情熱はずっと二十一年間変わらない。戦前の「ココナッツグローブ」を知っている初老の男性が、いまも通ってきてママと青春の思い出話に花を咲かせることもある。

店内は、自分で撮ったというジャズ奏者のパネルやポスターがあちこちあり、客には長髪族もいれば、背広組もいる。「これといった特徴のない店だけど、ママさんの雰囲気がなんとなく落ち着くんです」と常連客の学生さん。

もし君がジャズコンサートなどで、少々太めのおばさんに会ったら、間違いなくマサコのママだ。開店当時一杯四十円だったコーヒーも今は二百円。寂しかった下北沢も今や若者の街と化した。

「これからも私はずっとジャズからはなれられそうにもない」という奥田さん。「死んでもお経よりジャズ」と愉快に笑うビッグママである。

 

東京中日スポーツ 1971年11月16日

ごきげんなファッション小物があるヨ

▼…行動半径の広い行動派ヤングなら、下北沢と聞いただけでピーンとくる店「マサコ」が、最近ちょっと楽しいことを始めた。どこにも売っていないファッション小物(クラレがノベルティー用に作ったバッグ、シャツ、ルームアクセサリー類)を展示して、「どうしてもほしい」とママに頼むとわけてくれるのだ。どれも個性的なファッション用品だから絶対ごきげん。

マサコを知らない人は、ここが日本のモダンジャズ喫茶の草分け的存在と知っておこう。来日するミュージシャンまで訪ねてくるし、ママのマサコさんももちろん大のモダンジャズファン。彼らミュージシャンの楽屋に押しかけて一緒に写真をとってくる本格的な親衛隊?でもある。店の場所は小田急線下北沢南口から線路沿いに二、三分歩いたところ。住宅街にある店らしく、家庭的なふんい気で気軽にくつろげる。コーヒー(百三十円)を飲み、音楽を聞きながら、ファッションプランでも考えよう。

らんラン 忠実屋名店センターショッピング情報 1972年 12月

私の好きな店 忠実屋スグ裏

「マサコ」に入ってなんだかどうも落ち着かないなーと感じた時それは決まってママさんのいない時です。天井からぶら下がっている廻らない扇風機も、壁のすすけたロートレックのポスターも、店内を我が物顔で歩きまわっている猫も、みんなママさんの分身みたいなんです。若い人でいっぱいです。店の中も周囲の人達もみんな思い思いの格好でくつろいでいます。JAZZとCHANSONが同居している店「マサコ」はママさんに悪いけど長時間ネバリたくなるそんな店です。

(注、ママさん=マサコさん)TEL422-1561

毎日新聞 2000年8月17日

JAZZそよぐ夏 時代を見つめてきた笑顔

 

肖像画の中で、男女が笑っている。1960年代、哀調のメロディーで世界を魅了したピアニスト、マル・ウォルドロン。

その横に、はにかんだようなマサコがいる。

マサコ、聞こえますか。福島信吉さん(64)は、1枚のLPに針を落とす。歌手ビリー・ホリデーにささげられた名曲「レフト・アローン」が流れる。語りかけるようなマルのピアノとアルトサックスの音。寂しがり屋のマサコによく似合う。マサコがまた微笑んだような気がした。

「マサコ」の主人だった奥田政子さん(当時60歳)ががんで逝ったのは、1984年4月のことだった。ジャズにこだわり続けた半生。告別式も、下北沢のこの店で営んだ。

開店は、サンフランシスコ講和条約が発効した翌年、まだ占領下の残り香が強く漂っていた。マッカーサーと共にやってきたジャズは時代の最先端にいた。銭湯の大人料金が15円に値上げされたこの年、コーヒー1杯を60円で出した。高かった。でも、客足は伸びた。真新しい輸入盤を1枚かけるたびに、鉄のレコード針を換える。流れ出すアメリカの熱い音楽は、死と向き合う国防色の青春しか知らなかった若者たちを興奮させた。

 高校生だった福島さんも、毎日のように店に通った。LPやSPをさっそうとターンテーブルに乗せる政子さんの姿が格好良かった。大学卒業後、1年半ほどで会社勤めを辞め、「マサコ」の店員になった。

 

間もなく政治の季節になる。

60年安保闘争、大学紛争。ジャズを聴きながら議論する学生らでにぎわった。やがて、季節は移り、議論は談笑に変わった。

でも、福島さんにとってはどれも心地よいざわめきだった。「ジャズは喧騒の中から生まれたんです。どんな聴き方をしたって、本質は伝わるはずですから」

 政子さんが亡くなった後、福島さんは店の2階に居を構えて経営を継いだ。時代はさらに移ろう。若者はジャズから離れ、客足も減った。最近は、しんと静まった店の空気にたじろくことさえあるそう。その店のすぐ外を、顔いっぱいに驚くような化粧をした女子中、高生らが歓声を上げて通り過ぎる。

 でも、振り返ると、いつものマサコの笑顔がある。

 「うちはジャズを広める憩いの場。その役割は薄まっても、終わったとは思っていません」

 開店の時から客席にあるテーブルも、それにうなずいたのか、小さな音をたてた。

【メモ】1953年6月9日開店。無休(正月除く)。☎3410・7994。

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紫煙とコーヒーとアルトサックスの響き。日本が生んだ「ジャズ喫茶」という名の空間で、人は思いをめぐらし、人と交わり、人生を語った。そして今世紀最後の夏。20世紀に生まれたジャズをもう一度聴き直してみたい。半世紀の間、日本のジャズを育てた喫茶の中で時を過ごしたと思った。炎暑の東京を歩いた。【佐藤 大介】

毎日新聞 2003年4月22日

「コーヒーマサコ」は、開店50周年を迎えるジャズ喫茶の草分け。音楽がメーンの喫茶店は、演奏を静かに聴かせるために「私語禁止」を掲げることも多いが、オーナの福島信吉さん(67)は「一人で来ても、友達と大勢で来ても楽しんでいただけます」。今となっては懐かしい「モダン」と、ニューオリンズのような陽気さを満喫できる店だ。